首圖是維基百科上的照片。拍攝於2014年。
(譯註:粗體或劃線為非講稿部分)
早上醒來看到電郵的新聞頭條,覺得有種非翻不可的使命感,就緊急譯出這一篇文。
這裡會把講稿全文譯出,並且加入講稿原文,
以及日本宮內廳,還有日本經濟新聞這兩邊的部分內容。
宮內廳新聞稿點我
日經新聞稿點我
天皇陛下的記者會面
會見年月日:平成30年12月20日
會見場所:宮殿 石橋の間
日本宮內廳的新聞稿照片
天皇陛下在23日,迎接了八十五歲大壽。陛下為此提前於皇居.宮殿召開記者會。陛下細數著即位後三十年的種種,好幾次語帶哽咽,同時敘述到天皇存在為一個象徵的方式,對和平的期許,以及對國民與皇后殿下的謝意。陛下即將於2019年4月退位,此場在位中的記者會,將會成為絕響。發言全文將如下文刊出:
(譯註:粗體或劃線為非講稿部分)
問:天皇陛下您以天皇之位迎接了最後的生日。陛下與皇后一同走過的日子即將要迎向一個段落,皇室也將會由嶄新世代接棒擔負公務。想聽聽陛下您現在的心境,以及現在想傳達給國民的心聲。
天皇陛下作為一個憲法訂定的「國民統合象徵」而即位。一路以來,他追尋該象徵的存在方式,並且持續心繫面對天災人變的國民。
回顧這一整年,我們不能忘記,比起往年都要多出許多的天災。暴雨、地震,以及颱風,都造成了許多人命傷亡,而且,他們也失去了至此以來生活的根基。我透過報紙和電視知曉災情,並且,在數日之後造訪受災地,實際了解受災狀況。我感嘆大自然的力量,真是超乎想像。我為失去生命的人們致上哀悼,同時我也誠心希望受災的人們,能夠早日恢復原先的生活。
另外,我初次訪問受災區,是在昭和34年(1959年),作為昭和天皇的代理,訪問伊勢灣颱風(譯註:超級強烈颱風薇拉)的受災區域。
(原文)
この1年を振り返るとき、例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨、地震、そして臺風などによって多くの人の命が落とされ、また、それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り、また、後日幾つかの被災地を訪れて災害の狀況を実際に見ましたが、自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに、被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。
ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは、昭和34年(1959年)、昭和天皇の名代として、伊勢灣臺風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。
今年也即將邁入尾聲,距離我來年的讓位日,也是愈來愈近了。
自即位以來,我一邊摸索著在日本國憲法底下,被設置為象徵的天皇,要以何種形式存在,才符合人願,並且履行這份職務,一路過到了今天。直到讓位那天為止,我都會繼續摸索其形式,同時履行每一天的職務。
(原文)
今年も暮れようとしており、來年春の私の譲位の日も近づいてきています。
私は即位以來、日本國憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで、引き続きその在り方を求めながら、日々の務めを行っていきたいと思います。
十一歲時在避難處迎接終戰,天皇陛下在即位後,造訪了國內外的激戰地,屢次出訪「慰靈之旅」。陛下侃侃談到對和平持續的戰後日本的感想。
第二次世界大戰後的國際社會,處在東西兩方的冷戰結構之下;在平成元年(1989年)秋季,柏林圍牆倒塌,冷戰終結;那時候我對今後國際社會是否將會臻至大同之境,心懷希望。然而之後世界的動向,並非按照冀望的方向前進。世界各地發生民族糾紛以及宗教對立,而恐攻使得眾多生命犧牲;再者,還有為數眾多的難民,每天都過著苦難的日子。這些都讓我相當心痛。
(原文)
第2次世界大戦後の國際社會は、東西の冷戦構造の下にありましたが、平成元年(89年)の秋にベルリンの壁が崩れ、冷戦は終焉(しゅうえん)を迎え、これからの國際社會は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは、必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛爭や宗教による対立が発生し、また、テロにより多くの犠牲者が生まれ、さらには、多數の難民が苦難の日々を送っていることに、心が痛みます。
在上述的世界局勢當中,日本在戰後的道路上行至今日。我在十一歲迎接終戰,昭和27年(1952年),十八歲時舉辦成年禮,接著是舉辦冊封太子典禮。當年舊金山和平條約生效,日本回歸國際社會,我接連迎接到任於我國的各國大使、公使。我都還記得當年的景象。然後隔年,我出席英國伊麗莎白二世女王陛下的加冕典禮,並在這段時間前後的半年之間,訪問了各個外國。
(原文)
以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え、昭和27年(52年)、18歳の時に成年式、次いで立太子禮を挙げました。その年にサンフランシスコ平和條約が発効し、日本は國際社會への復帰を遂げ、次々と我が國に著任する各國大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年、英國のエリザベス2世女王陛下の戴冠式に參列し、その前後、半年余りにわたり諸外國を訪問しました。
此後六十五年的歲月流逝,靠著全體國民的努力,我國在國際社會當中步步高昇,逐步建立和平以及繁榮。昭和28年(1953年)時奄美群島,昭和43年(1968年)時小笠原群島,然後是昭和47年(1972年)沖繩,都成功地回歸我國。沖繩,包含先前的大戰,實在是度過了一段漫長而苦難的歷史。包含太子時期,我和皇后一共訪問了十一次,戮力瞭解該處的歷史和文化。我們對於沖繩的人們所不斷承受的犧牲,致上我們的善意,而這份善意在今後也不會變卦。
(原文)
それから65年の歳月が流れ、國民皆の努力によって、我が國は國際社會の中で一歩一歩と歩みを進め、平和と繁栄を築いてきました。昭和28年(53年)に奄美群島の復帰が、昭和43年(68年)に小笠原諸島の復帰が、そして昭和47年(72年)に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません。
如此這般,我國進入平成時代,迎接了戰後五十年,六十年,還有七十年等周年時分。在先前大戰我們喪失了眾多人命,而我國戰後的和平與榮景,是建立在如此眾多的犧牲,以及國民夙夜匪懈的努力之上;我將此謹記在心,並一直認為,對戰後出生的人們正確地傳遞這般價值,事關重要。平成將會結束為一個沒有戰爭的時代,我對此感到很安心。
再來,我忘不了在戰後六十年前往塞班島,戰後七十年前往帛琉的貝里琉島,再來是隔年前往菲律賓的卡利拉雅,進行慰靈訪問。我感謝各國寬宏地接納皇后和我的訪問。
(原文)
そうした中で平成の時代に入り、戦後50年、60年、70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が國の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と國民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦爭のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています。
そして、戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、さらにその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を溫かく受け入れてくれた各國に感謝します。
「平成」是一個自然災害頻繁的年代。天皇陛下與皇后殿下一同訪問受災地數次。兩人與受災者們共苦同甘,共享悲傷與希望。
再來令我印象深刻的,便是天災。平成3年(1991年)的雲仙.普賢岳火山噴發,平成5年(1993年)的北海道西南近海地震還有奧尻島的海嘯災害,由此開始,再到平成7年(1995年)的關西大地震,平成23年(2011年)的東日本大震災,天災頻傳,造成眾人傷亡,無數人們深受其害;我對於前述事件的悲傷,無以言盡。但是,天降困頓中,人與人之間以志工活動為首,培育出互助之善心,並且逐年提高防災意識;這些舉動都給了我很大的勇氣。還有,災害發生時人們規矩有禮節的應對模樣,也總是令我動容。
(原文)
次に心に殘るのは災害のことです。平成3年(91年)の雲仙?普賢岳の噴火、平成5年(93年)の北海道南西沖地震と奧尻島の津波被害に始まり、平成7年(95年)の阪神?淡路大震災、平成23年(11年)の東日本大震災など數多くの災害が起こり、多くの人命が失われ、數知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に盡くせぬ悲しみを覚えます。ただ、その中で、人々の間にボランティア活動をはじめ様々な助け合いの気持ちが育まれ、防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気づけられます。また、災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には、いつも心を打たれています。
以身心障礙者為首,那些有難處的人們,直到今天我都認為,對他們寄予善心,也是我們相當重要的責務。身障者的運動,本來是為了復健活動而起於歐洲地區,而我們一直期望,這運動能夠變得超越原先的目的,讓身障者盡情享受運動,甚至更棒的,讓觀眾也能夠享樂其中。以殘障奧運為首,還有國內每年所舉辦的全國身障者運動會,各位都能共襄盛舉,令我感慨甚深。
(原文)
障害者をはじめ困難を抱えている人に心を寄せていくことも、私どもの大切な務めと思い、過ごしてきました。障害者のスポーツは、ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが、それを越えて、障害者自身がスポーツを楽しみ、さらに、それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め、國內で毎年行われる全國障害者スポーツ大會を、皆が楽しんでいることを感慨深く思います。
天皇陛下即位後訪問訪問36國,與活躍於各國的日裔人士做了熱心的交流。在這樣跨越國際,人流交往繁盛之中,陛下衷心希望人們多多營造透過交流而帶來的友好關係。
今年,我國開始向海外移住,已經邁向了150年。在這段期間,眾多日本人,在所到地方的人們幫助下,兢兢業業,已經能夠融入該社會並發展傑出表現。心繫日裔人士們的努力,在造訪各國之際,我盡量把握見面的機會。而近年,眾多的外國人士開始在我國工作。我們在訪問菲律賓和越南時,也會面了將來目標在日本就職,而努力做準備的人們。日裔人士們在各國接受幫助的同時,也作為各自社會的一員有所表現,對此我有所感念;並且,我盼望我們所有人,能夠對於自各國前來我國工作的人們,敞開胸懷以表歡迎。另外,來自外國的訪客也與年俱增。盼望訪客們能夠親眼看看我國,加深理解,促進與各國的親善友好關係。
(原文)
今年、我が國から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間、多くの日本人は、赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね、その社會の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら、各國を訪れた際には、できる限り會う機會を持ってきました。そして近年、多くの外國人が我が國で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も、將來日本で職業に就くことを目指してその準備に勵んでいる人たちと會いました。日系の人たちが各國で助けを受けながら、それぞれの社會の一員として活躍していることに思いを致しつつ、各國から我が國に來て仕事をする人々を、社會の一員として私ども皆が溫かく迎えることができるよう願っています。また、外國からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が國を自らの目で見て理解を深め、各國との親善友好関係が進むことを願っています。
天皇陛下,皇后殿下兩人即將迎來結婚第六十周年。天皇陛下坦言皇后殿下在這趟「天皇人生路」上甘苦與共的皇后,並對皇位交接後的嶄新時代寄予期待。
明年四月我將結婚滿六十周年。結婚以來皇后她,總是伴我一同前行,理解我的想法,支撐著我的立場與職務。並且,她相當珍惜以昭和天皇為首,和我有所關係的人們;我們鶼鰈情深,養育了三個孩子。回顧過去,在我以成年皇族的身分踏上人生旅途沒有多久,就遇見了現在的皇后,並在她深厚的信賴之下,求得結伴;其後我們夫妻便同甘共苦,直至今日。在我將要結束這趟天皇人生路的當下,我對至今,接受我作為一個象徵的立場,並且不間斷支持我的諸多國民,由衷的感謝;同時,本身亦是一位國民的皇后,她加入我的人生旅途,在這60年漫長歲月,一直真心相待,盡到皇室與國民雙方的奉獻。我對此發自內心,為她致上誠摯謝意。
(原文)
明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以來皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました。また、昭和天皇をはじめ私とつながる人々を大切にし、愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば、私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく、現在の皇后と出會い、深い信頼の下、同伴を求め、爾來(じらい)この伴侶と共に、これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの國民に衷心より感謝するとともに、自らも國民の一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と國民の雙方への獻身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います。
然後,明年春天我將會讓位,嶄新時代即將開始。在此我相當感謝諸多關係人士為此精心準備。在一個嶄新的時代,即將繼位天皇的皇太子,以及支持其身的秋篠宮,至今已共同積累眾多經驗;他們將會秉承皇室傳統,適應日日變化的社會,邁步走向未來。
今年也餘時甚少,期望各位國民都能有一個美好的新年。
(原文)
そして、來年春に私は譲位し、新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に當たってくれていることに感謝しています。新しい時代において、天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており、皇室の伝統を引き継ぎながら、日々変わりゆく社會に応じつつ道を歩んでいくことと思います。
今年もあと僅かとなりました。國民の皆が良い年となるよう願っています。
平成年就剩四個月多啦......
(12/24追記)修改部分文句