(承接自第60番歌詞)
61.
義烈壯烈(ぎれつそうれつ) 母(はは)刀自(とじ)の
大和魂(やまとだましひ) うけつぎて
社稷(しやしよく)のために 竭(つく)したる
君(きみ)がほまれは 千代朽(ちよく)ちず
62.
魁斗山上(くわいとさんじやう) 五妃(ごひ)の墓(はか)
寧靖(ねいせい)王(わう)の きさきたち
操(みさを)まもりて この土地(とち)に
果(は)てぬと聞(き)くも あはれなり
63.
全臺首學(ぜんだいしゆがく)と 記(しるし)たる
大成殿(たいせいでん)の 建物(たてもの)は
公學校(こうがくかう)に 充(あ)てられて
今猶(いまなほ)吚唔(いご)の 聲(こゑ)を聞(き)く
64.
僭(せん)してここに 臺灣(たいわん)の
王(わう)と名(な)のりし 朱一貴(しゆいつき)が
住(す)みし昔(むかし)の 宮居(みやゐ)あり
今法院(いまはふゐん)を 此處(ここ)に置(お)く
65.
そぞろに淚(なみだ) そのかみを
しのびまつるも かしこしや
北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)
ここにみまかり 給(たま)いけり
66.
君(きみ)の敕(みこと)を うけたまひ
近衛(このゑ)の兵(へい)を ひきつれて
島(しま)を平(たい)らげ 給(たま)いたる
親王(みこ)のみいさを 忘(わす)るなよ
67.
名(な)は安平(アンピン)と 聞(き)こゆれど
港(みなと)次第(しだい)に 埋(うづ)もれて
大船(たいせん)岸(きし)に つながれず
風波(ふうは)を凌(しの)ぐ 便(たよ)りなし
68.
赤崁(せきかん)城趾(じやうし)の 大榕(だいようじゆ)
遙(はる)か沖(おき)より ながめらる
海(うみ)を行(ゆ)くひと この樹(き)をば
目當(めあ)てとなして 往來(わうらい)す
69.
これより海路(かいろ) 五十二浬(ごじふにり)
澎湖島(ばうこたう)なる 媽宮港(まきゆうかう)
みなとの內(うち)は 水深(みづふか)く
大艦巨舶(たいかんきよはく) 泊(とど)むべし
70.
更(さら)に汽車(きしや)にて 中洲莊(ちゆうしうしやう)
車路墘(しやろけん)過(す)ぎて 大湖街(たいこがい)
半路竹(はんろちく)經(へ)て 阿公店(あこうてん)
橋仔頭(けうしとう)より 楠仔坑(なんしかう)
71.
東北(とうほく)指(さ)して 行(ゆ)くときは
蕃薯(いも)に名(な)を得(え)し 蕃薯寮(ばんしよれう)
樟腦(しやうなう)出(い)だす 甲仙埔(かうせんほ)
急(いそ)ぐ旅(たび)とて 立(た)ち寄(よ)らず
72.
舊城(きうじやう)過(す)ぎて 打狗港(たかおかう)
縱貫(じゆうくわん)鐵道(てつだう) ここに盡(つ)く
商船(しやうせん)常(つね)に 輻輳(ふくそう)し
百貨(ひやくくわ)は日々(ひび)に 山(やま)を為(な)す
73.
なほも支線(しせん)に 乘(の)りかへて
三塊厝(さんかいせき)を 通(とほ)り過(す)ぎ
をんらい出(い)づる 鳳山(ほうざん)に
曹公圳(さうこうしゆう)を 探(さぐ)るべし
74.
後莊(こうしやう)越(こ)えて 九曲堂(きうきよくだう)
一里(いちり)東(ひがし)に 阿緱街(あこうがい)
下淡水(しもたんすい)の 河口(かはぐち)に
東港(とうかう)といふ 港(みなと)あり
75.
これより五里(ごり)の 海上(かいじやう)に
かすかに見(み)ゆる 小琉球(せうりうきう)
長(なが)さは一里(いちり) 幅(はば)半里(はんり)
何(いづ)れの家(いへ)も 鹿(しか)を畜(か)ふ
76.
枋寮(ばうれう) 枋山(ばうざん) 楓港(ふうかう)と
海邊(うみべ)の路(みち)を 辿(たど)り行(ゆ)く
山(やま)はせまりて 海(うみ)をせめ
波(なみ)は激(げき)して 巖(いは)を嚙(か)む
77.
車城(しやじやう)に注(そそ)ぐ 四重溪(しぢゆうけい)
その川上(かはかみ)の 石門(せきもん)は
兩岸(りやうがん)いはほ そば立(た)ちて
恰(あたか)も門(もん)の 狀(さま)をなす
78.
明治七年(めいじしちねん) 我(わ)が軍(ぐん)が
頑強(ぐわんきやう)なりし 牡丹社(ぼたんしや)を
劇(はげ)しく攻(せ)めし 所(ところ)なり
途(みち)に記念(きねん)の 碑(ひ)を探(さぐ)れ
79.
皇澤(くわうたく)日々(ひび)に 霑(うるほ)ひて
學(まな)びの庭(には)に 蕃童(ばんどう)が
われ劣(おと)らじと 集(つど)ひ來(き)て
御國(みくに)言葉(ことば)の 花(はな)ぞ咲(さ)く
80.
氣候(きこう)はいつも 暖(あたた)かに
春(はる)の如(ごと)しと 聞(き)こへたる
恒春(こうしゆん)街(がい)に いたりなば
求(もと)めて來(き)たれ 胡蝶蘭(こてふらん)
81.
ここにて西部(せいぶ) はてぬれば
海路東岸(かいろとうがん) さぐらんと
たよりを待(ま)ちて 海濱(かいひん)の
大板轆(だいはんろく)を 船出(ふなで)せり
82.
バシイ海峽(かいけう) 隔(へだ)てたる
ルソンと遙(はる)か 相(あひ)むかふ
最南端(さいなんたん)の 鵞鑾鼻(がらんび)に
大燈臺(だいとうだい)を 設(まう)けたり
83.
鼻(はな)をまはりて 北方(ほくはう)に
船路(ふなぢ)をかへて 進(すす)み行(ゆ)く
海上遠(かいじやうとほ)く 紅頭嶼(こうとうしよ)
雲(くも)か山(やま)かと 薄(うす)がすむ
84.
島(しま)のめぐりは 九里(くり)あまり
太古(たいこ)のさまを 見(み)る如(ごと)き
いとあわれなる 蠻民(ばんみん)が
二千(にせん)ばかりも 住(す)むと聞(き)く
85.
やがて卑南(ピナン)に 寄港(きかう)せり
臺東一帶(たいとういつたい) 未開(みかい)の地(ち)
天與(てんよ)の遺利(ゐり)は そのままに
人(ひと)の來(き)たりて 取(と)るを待(ま)つ
86.
黑潮(くろしほ)に沿(そ)ひ 進(すす)みつつ
次(つぎ)に立(た)ち寄(よ)る 花蓮港(くわれんかう)
移民(いみん)の計畫(けいかく) 歩(ほ)を進(すす)め
開拓(かいたく)事業(じげふ) 起(お)こりたり
87.
これより沿岸(えんがん) 二十餘里(にじふより)
幾千尺(いくせんしやく)の 斷崖(だんがい)が
海(うみ)にせまりて 聳(そび)え立(だ)ち
船(ふね)を寄(よ)すべき 所(ところ)なし
88.
蘇澚(そおう)の港(みなと)に 船(ふね)をすて
宜蘭(ぎらん)の平野(へいや)を 橫(よこ)ぎりて
それより山路(さんろ) 分(わ)け入(い)らば
深坑(しんかう)地方(ちはう)に 到(いた)るべし
89.
濱邊(はまべ)の路(みち)を 越(こ)え行(ゆ)けば
三貂角(さんしようかく)は 右(みぎ)に出(い)づ
領臺役(りやうだいえき) まっさきに
近衛(このゑ)の軍(ぐん)の 上陸地(じやうりくち)
90.
これより元(もと)へ 歸(かへ)る道(みち)
黃金(こがね)掘(ほ)り出(だ)す 牡丹坑(ぼたんかう)
尚(なお)も瑞芳(ずいはう) 金瓜石(きんくわせき)
寶(たから)の山(やま)は 連(つら)なれり
(完)
以上就是全部歌詞,真的有夠長,維基百科上的歌詞唯一幫到我的是可以用複製貼上的方式少打很多字,但是在漢字的字體部份,有的用新字體,有的用舊字體,標音的部份也是一樣,有的用現代假名遣,有的用歷史假名遣,實在是很困擾,其實可以一致性的…
至於歷史假名遣的部份,還真是很難懂,有的字需要,有的字又不用,尤其是か行的字,很多都發成くわ、ぐわ,常常都會漏掉,畢竟都是學現代日語,腦中已經被現代假名遣的思維給影響了,所以即使貼上來之後還是要再改正,說不定突然看到哪裡漏掉沒有改到還是會再編輯吧?這首歌我很喜歡,但是真的太長了。
沒想到臺灣有這麼多地方能寫成歌,當時的作者實在很神,以上。