ixy(いくしー)さんのノート記事読んで、思うことがある
一部の超天才を除いて、普段人間は時がたつといろいろ忘れる
でも言語という高度のものは扱える
というのも、
上記の文章を音読してまたはキーボードで再現することは
とんでもない処理能力を要するし、
結局長年培ってきた直感でなんとかそれらしい破綻しない文を書くことです
振り返れば、五年前に小説を書くの試みた
文法とか自信を持って書ける感じがしなくて、結局どっと疲れて続き描きたくなくなっちゃった
二年前になって文を読み返すと、まったくそれほどの大ミスをやったわけでもなく、ただ隨所に格助詞を間違えたぐらいの凡ミスで、意図はちゃんと書けていると思う
だったら今の文章力で続きを描こうと思うが、逆に描けなくなった。興味を失って何かを伝える工夫を怠って、ただ正しさを求めてしまうと本當に大事な意思疎通をおろそかにしてしまうからだ
今は文章での創作意欲がさらに低下し、理屈をたくさん覚えたのにやる気を完全に失って、創作の世界を信じることができなくなって、つまらない大人になった気がする
これとイクシーさんの記事に合わせて、思うところがある
なんで俺は日本語を使えるのか、本當にわからん。
ただただ好きだったし、しゃべれるようにいろいろ手探りしたし、何年も重ねてようやく今の語彙力となった
きっと絵もそうだろう
好きに描いていて、いろんなものに觸れて、記憶に止めておくことで自然に扱えるようになるんだろう
文脈なしの暗記と違って、そこで被寫體の存在意義を體感して、まるで物語りを経験しているように真剣に未知と向き合う
そうしてるうちに自分なりの「正解」が見えて、未熟なる「不正解」もわかるようになって、これが本當の學びなんじゃないかと思う
だから年を取ったからと言ってなんでもわかる気になるのは老害の始まりなわけで、一生新しいものに觸れ自分で考えて答えを出し続ける、成長していくことがベストなんじゃないかな
そしてこの上ない最も大事なことは、やり続けることと、始めることだ
わからん