這是本歌曲的相關影片:
影片跟網路上都可以找到說明與中文翻譯,所以就不多加贅述,這裡我想說的是歌詞的體裁部份,明明在送假名部份是歷史假名遣的體裁,但是漢字發音用現代假名遣來標音我看了就覺得很違和,不過這首介紹臺灣特色的歌曲其歌詞高達90番。
歷史假名遣的部份我就借助「goo辭書」來校正,因為維基百科上的歌詞有很多漏字,為了校正歌詞跟附上標音我花了十幾個小時放在LINE的記事本裡(原來LINE記事本跟這裡都可以一次性地把全番歌詞整個放進來),照例我一樣不用假名踴字「ゝ」與「ゞ」,輸入上太麻煩了。
即便是影片中初音唱的歌詞一樣有錯,如「江頭」跟「林投」其實要唱成臺語的發音「カンタウ」、「ナアタウ」才對…
第73番的「をんらい」我附上漢字「鳳梨」並把標音改成片假名的「ヲンライ」,一樣也是臺語的發音。
如果歌詞歷史假名遣標音與舊字體有誤的地方請各位賢達不吝指正。
歌詞如下:
《臺灣周遊唱歌》(明治43年、1910年)
作詞:宇井 英
作曲:高橋 二三四
(漢字は舊字體で表示する、又、振り仮名や送り仮名等も歴史的仮名遣いで表示する)
(「ゝ」と「ゞ」を使用しない)
1.
國光四海(こくくわうしかい)に かがやきて
東亞(とうあ)の空(そら)に 霸(は)をなせる
我(わ)が日(ひ)の本(もと)の 新領土(しんりやうど)
臺灣島(たいわんたう)を さぐり見(み)ん
2.
南北(なんぼく)長(なが)さ 一百里(いつぴやくり)
めぐりは二百九十餘里(にひやくくじふより)
小島(こじま)あはせて その廣(ひろ)さ
九州島(きうしうたう)と ほぼひとし
3.
山(やま)に金銀(きんぎん) 海(うみ)に鹽(しほ)
製茶(せいちや)製糖(せいたう) 果實類(くわじつるい)
水田(みづた)に稻(いね)は 二度(にど)みのる
げに帝國(ていこく)の 無盡藏(むじんざう)
4.
基隆港(きいるんかう)の あさぼらけ
登(のぼ)る朝日(あさひ)の てりそひて
輝(かがや)きわたる そのながめ
フオルモサの名(な)も 徒(ただ)ならず
5.
最北門(さいほくもん)の 鎖鑰(さやく)にて
母國(ぼこく)に渡(わた)る 唯一(ゆいいつ)の
要津(えうしん)なれば 朝夕(てうせき)に
出船(でふね)入船(いりふね) 絕(た)え間(ま)なし
6.
いざや西部(せいぶ)を めぐらんと
汽笛一聲(きてきいつせい) 進(すす)み行(ゆ)く
八堵(はつと)七堵(しちと)の 次(つぎ)は五堵(ごと)
水返腳(すいへんきやく)の 小市街(せうしがい)
7.
附近(ふきん)の山(やま)に 石炭(せきたん)の
多(おほ)く出(い)づるを 語(かた)りつつ
南港(なんかう)錫口(しやくこう) たちまちに
はや臺北(たいほく)に 著(つ)きにけり
8.
四面(しめん)は山(やま)に かこまれて
地勢(ちせい)京都(きやうと)に さも似(に)たり
おのづからなる 城壁(じやうへき)は
げに萬世(ばんせい)の かためなり
9.
君(きみ)が御稜威(みいつ)に 高砂(たかさご)の
浦回(うらわ)の風(かぜ)も をさまりて
ここに開(ひら)けし 總督府(そうとくふ)
文武(ぶんぶ)の機關(きかん) そなはれり
10.
市街(しがい)の規模(きぼ)は 宏大(くわうだい)に
道路(だうろ)平坦(へいたん) 砥(と)の如(ごと)く
下水工事(げすいこうじ)に 至(いた)るまで
水(みづ)ももらさぬ たくみなり
11.
幾百年後(いくひやくねんご)の 膨脹(ばうちやう)を
かねてはかりて 定(さだ)めたる
市區改正(しくかいせい)の 雄雄(をを)しさよ
想(おも)ひやるだに たのもしや
12.
支線(しせん)に乘(の)りて 圓山(まるやま)の
臺灣神社(たいわんじんじや) をがみつつ
基隆川(きいるんがは)を うちわたり
昔(むかし)をしのぶ 劍潭寺(けんたんじ)
13.
夙(つと)に學者(がくしや)の 淵藪(えんそう)と
稱(とな)へられたる 士林(しりん)には
遭難(さうなん)六氏(ろくし)の 碑石(ひせき)あり
芝山巖頭(しざんがんとう) 香(か)をとどむ
14.
硫黃(いわう)を出(い)だす 北投(ほくとう)は
音(おと)に聞(きこ)ゆる 溫泉場(をんせんば)
湯(ゆ)浴(あ)みする人(ひと) 遊(あそ)ぶひと
常(つね)に絕(た)えずと 聞(き)くぞかし
15.
左(ひだり)に高(たか)きは 大屯山(だいとんざん)
右(みぎ)に低(ひく)きは 紗帽山(しやぼうざん)
群(むら)がる山(やま)の その奧(おく)に
秀(ひい)でで見(み)ゆる 七星山(しちせいざん)
16.
江頭(カンタウ)過(す)ぎて 川岸(かはぎし)に
沿(そ)ひつつ行(ゆ)けば 淡水港(たんすいかう)
河畔(かはん)の丘(をか)に いかめしき
建物(たてもの)多(おほ)く 聳(そび)えたり
17.
屋上(をくじやう)高(たか)く ひるがへる
同盟國(どうめいこく)の 旗(はた)じるし
問(と)はぬ先(さき)にも 知(し)られたり
大英國(だいえいこく)の 領事館(りやうじくわん)
18.
三百年(さんびやくねん)の その昔(むかし)
萬里(ばんり)の波(なみ)を 凌(しの)ぎ來(き)て
武威(ぶゐ)を振(ふる)ひし イスパニヤ
サンチヤゴ城(じやう) 此處(ここ)に建(た)つ
19.
後(のち)にオランダ 來(き)てりしが
鄭氏(ていし)代(か)はりて これに據(よ)る
榮枯(えいこ)はうつる 世(よ)のならひ
英雄(えいゆう)のあと 今(いま)いづこ
20.
樓(ろう)に登(のぼ)りて 見渡(みわた)せば
舳艪(じくろ)つらねて うち集(つど)ふ
唐船(もろこしぶね)の 數(かず)知(し)らず
觀音山下(くわんおんざんか) 畫(ゑ)の如(ごと)し
21.
此處(ここ)の港(みなと)を 船出(ふなで)して
海路(かいろ)僅(わずか)に 二百餘浬(にひやくより)
その日(ひ)の中(うち)に 對岸(たいがん)の
廈門(アモイ)の港(みなと)に 著(つ)かるべし
22.
再(ふたた)び歸(かへ)りて 本線(ほんせん)に
うつれば忽(たちま)ち 艋舺(マンカ)驛(えき)
新店川(しんてんがは)の 鐵橋(てつけう)も
またたくひまに うち渡(わた)る
23.
富豪(ふがう)林氏(りんし)の 邸宅(ていたく)の
甍(いらか)つらねて 構(かま)へたる
枋橋(ハンケウ)越(こ)ゆれば 樹林(じゆりん)なり
山仔腳(サンシキヤク)經(へ)て 鶯歌石(オウカセキ)
24.
鳥(とり)のかたちに よく似(に)たる
巨石(きよせき)はたてり 山腹(さんぷく)に
鄭軍(ていぐん)砲(はう)を うちし時(とき)
頭(かしら)缺(か)けぬと 言(い)ひ傳(つた)ふ
25.
三角湧(さんかくゆう)は この奧(おく)へ
一里(いちり)あまりの 小市街(せうしがい)
製腦(せいなう)事業(じげふ) 見(み)ん人(ひと)は
さらに山路(やまぢ)を 辿(たど)るべし
26.
春桃園(はるたうゑん)の 樂鄉(らくきやう)に
遊(あそ)ぶもうれし 秋(あき)は又(また)
大嵙崁(だいこかん)なる 山奧(やまおく)に
奇巖(きがん)を見(み)るも おもしろし
27.
蕃界(ばんかい)近(ちか)く 踏(ふ)み入(い)れば
兩岸(りやうがん)險(けは)しき 谷川(たにがは)に
藤(とう)にて造(つく)れる 吊(つ)り橋(ばし)の
あやふくかかる 所(ところ)あり
28.
北部諸山(ほくぶしよざん)の 生蕃(せいばん)を
防(ふせ)ぐためとて 要所(えうしよ)には
鐵條網(てつでうまう)を 張(は)り渡(わた)し
隘勇(あいゆう)線(せん)を 設(まう)けたり
29.
崁仔腳(かんしきやく)をば 後(あと)にして
中壢街(ちゆうれきがい)を 過(す)ぎ行(ゆ)けば
四面(しめん)の畑(はたけ)は みな茶(ちや)の樹(き)
安平鎮(あんぺいちん)の 製茶場(せいちやぢやう)
30.
本島特產(ほんたうとくさん) 烏龍(ううろん)茶(ちや)
なほも紅茶(こうちや)の 實況(じつきやう)を
知(し)らんと想(おも)ふ 人(ひと)あらば
必(かなら)ずくぐれ この門(もん)を
31.
楊梅壢(やうばいれき)より 大湖口(たいここう)
紅毛田(こうもうでん)を 過(す)ぎ行(ゆ)けば
はや著(つ)きにけり 新竹(しんちく)に
ここは昔(むかし)の 竹塹埔(ちくざんほ)
32.
清(しん)の雍正(ようせい)元年(ぐわんねん)に
淡水廳(たんすいちやう)を 置(お)かれけり
城壁(じやうへき)の跡(あと) 猶(なほ)殘(のこ)り
舊剎(きうさつ)古廟(こべう) 亦(また)存(そん)す
33.
市街(しがい)の西方(せいはう) 約半里(やくはんり)
尖筆山(せんぴつざん)の いただきに
北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)
御露營(ごろえい)ありし 遺跡(ゐせき)あり
34.
新埔(しんぽ)は蜜柑(みかん)の 本場(ほんば)にて
北埔(ほくぽ)に椎茸(しいたけ) 多(おほ)く出(い)づ
香山(かうざん)中港(ちゆうかう) 過(す)ぎぬれば
次(つぎ)は造橋(ざうけう) 後壟(こうろう)よ
35.
後壟溪(こうろうけい)の 鐵橋(てつけう)を
渡(わた)れば此處(ここ)は 苗栗(べうりつ)ぞ
石油(せきゆ)の產地(さんち) 出礦坑(しゆつくわうかう)
これより四里(より)の 奧(おく)にあり
36.
銅鑼灣(どらわん) 三叉河(さんさほ) 後里莊(こうりしやう)
米(こめ)の產地(さんち)と 名(な)も高(たか)き
葫蘆墩(コロトン)驛(えき)の 近傍(きんぱう)に
製麻(せいま)會社(ぐわいしや)を 見(み)て行(ゆ)かん
37.
此處(ここ)まで數里(すうり)の その間(あひだ)
地勢(ちせい)嶮岨(けんそ)の その上(うへ)に
大安(たいあん)大甲(たいかふ) 二溪(にけい)あり
箱根(はこね)のトンネル 想(おも)ひやる
38.
林投(ナアタウ)編(あ)みて 作(つく)るてふ
淡水帽(たんすいぼう)の 產地(さんち)なる
大甲(たいかふ) 通宵(つうせう) 宛里(ゑんり)など
海邊(うみべ)に近(ちか)き 土地(とち)にあり
39.
潭仔墘(たんしけん)經(へ)て その次(つぎ)は
中部一(ちゆうぶいち)なる 臺中(たいちゆう)よ
清朝(しんてう)かつて この土地(とち)に
臺灣府(たいわんふ)をば 置(お)きたりき
40.
明治四十一年(めいじよんじふいちねん)に
はじめて成(な)りし 鐵道(てつだう)の
全通式(ぜんつうしき)を 擧(あ)げたりし
此處(ここ)の公園(こうゑん) 眺(なが)めよし
41.
陶器(たうき)を出(い)だす 南投(なんとう)へ
輕便(けいべん)鐵道(てつだう) 敷(し)かれたり
本島無二(ほんたうむに)の 別天地(べつてんち)
埔里(ほり)社(しや)はなほも 奧(おく)と聞(き)く
42.
流石(さすが)に猛(たけ)き 霧社蕃(むしやばん)も
馘首(くわくしゆ)の刃(やいば) うちすてて
厚(あつ)きめぐみを 慕(した)い來(く)る
蕃(ばん)產物(さんぶつ)の 交換所(かうくわんじよ)
43.
日月潭(じつげつたん)の 勝景(しようけい)は
蓬萊山(ほうらいさん)も よそならず
綠(みどり)のかげには 鳥歌(とりうた)ひ
瑠璃(るり)の水(みづ)には 魚躍(うをおど)る
44.
烏日(うじつ)過(す)ぐれば 大肚(たいと)なり
米(こめ)の集散(しふさん) おびただし
ここに河(かは)あり 大肚溪(たいとけい)
水(みづ)に遊(あそ)ぶは 水牛(すいぎう)よ
45.
龍車(りゆうしや)に向(む)かふ 蟷螂(たうらう)が
斧(をの)を微塵(みじん)に 碎(くだ)かれし
彰化(しやうくわ)の東(ひがし) 八卦山(はつけさん)
中臺(ちゆうたい)平野(へいや) 一(ひと)ながめ
46.
茄苳腳(かとうきやく)の その次(つぎ)に
バナナ 朱欒(ザボン)の產地(さんち)なる
員林(ゐんりん)過(す)ぐれは 社頭(しやとう)なり
田中央(でんちゆうあう)經(へ)て 二八水(にはちすい)
47.
全島一(ぜんたういち)の 大河(たいが)とて
音(おと)に聞(き)こえし 濁水溪(だくすいけい)
大雨(だいう)至(いた)れば たちまちに
平野(へいや)變(へん)じて 海(うみ)となる
48.
林內(りんない)過(す)ぎて 車窗(しやさう)より
かすかに見(み)ゆる 新高(にひたか)の
山(やま)の高(たか)きは 日本一(にほんいち)
明治(めいじ)の帝(みかど) 名(な)を賜(たま)ふ
49.
雲林(うんりん)今(いま)は 斗六街(とろくがい)
土匪(どひ)のさわぎに 大方(おほかた)は
兵火(へいくわ)の災(わざ)に 罹(かか)りにき
他里霧(たりむ)の次(つぎ)は 大莆林(たいほりん)
50.
打貓(ためう)の西方(せいはう) 三里(さんり)なる
北港街(ほくかうがい)の 媽祖宮(まそきゆう)は
四方(よも)の信仰(しんかう) 厚(あつ)きこと
本島一(ほんたういち)と 聞(き)こえたり
51.
林爽文(りんさうぶん)の 騷亂(さうらん)に
時(とき)の帝(みかど)が 住民(ぢゆうみん)の
義勇(ぎゆう)嘉(よ)みして つけられし
嘉義(かぎ)の譽(ほまれ)は 碑(ひ)に殘(のこ)る
52.
此處(ここ)に至(いた)らば 農會(のうくわい)の
苗圃(べうほ)に足(あし)を 運(はこ)ぶべし
小河(をがは)めぐれる 丘(をか)の上(うえ)
見渡(みわた)すかぎり 檳榔子(びんらうじ)
53.
大森林(だいしんりん)の 阿里山(ありさん)は
これより數里(すうり) 奧(おく)にあり
枝(えだ)を交(まじ)ふる 木木(きぎ)の蔭(かげ)
晝(ひる)猶暗(なほくら)く ものすごし
54.
鐵道線路(てつだうせんろ)の 右側(みぎがは)に
立(た)つる目標(めじるし) 見(み)おとすな
北回歸線(きたくわいきせん) このあたり
はや熱帶(ねつたい)の 客(きやく)となる
55.
これより南部(なんぶ) おしなべて
甘蔗(かんしや)の畑(はたけ) 打(う)ち続(つづ)き
製糖會社(せいたうぐわいしや) そこここに
煙突(えんとつ)高(たか)く 競(きそ)ひ立(た)つ
56.
水堀頭(すいくつとう)より 後壁寮(こうへきれう)
新營莊(しんえいしやう)の 西方(せいはう)に
鹽水港(えんすいかう)の 市街(しがい)あり
布袋嘴(ほていし)よりは 鹽產(しほさん)す
57.
林鳳營(りんほうえい)經(へ)て 蕃仔田(ばんしでん)
灣裡(わんり)を過(す)ぎて 新市街(しんしがい)
大目降(たいもくかう)は この東(ひがし)
糖業試驗所(たうげふしけんじよ) 設(まう)けらる
58.
南部(なんぶ)のみやこ 臺南(たいなん)は
本島中(ほんたうちゆう)に ふるくより
開(ひら)けし地(ち)とて 人多(ひとおほ)く
名所舊跡(めいしよきうせき) 亦多(またおほ)し
59.
陸軍(りくぐん)衛戍(ゑいじゆ)病院(びやうゐん)は
オランダ人(じん)の 築(きづ)きたる
赤崁樓(せきかんろう)の ありし跡(あと)
三層樓閣(さんそうろうかく) 聳(そび)えたり
60.
鄭成功(ていせいこう)を 祀(まつ)りたる
延平王(えんぺいわう)の 祠(やしろ)あり
領臺以後(りやうたいいご)に 改(あらた)めて
開山(かいざん)神社(じんじや)と 稱(しよう)せらる
61.
義烈壯烈(ぎれつさうれつ) 母(はは)刀自(とじ)の
大和魂(やまとだま) うけつぎて
社稷(しやしよく)のために 竭(つく)したる
君(きみ)がほまれは 千代朽(ちよく)ちず
62.
魁斗山上(くわいとさんじやう) 五妃(ごひ)の墓(はか)
寧靖(ねいせい)王(わう)の きさきたち
操(みさを)まもりて この土地(とち)に
果(は)てぬと聞(き)くも あはれなり
63.
全臺首學(ぜんだいしゆがく)と 記(しる)したる
大成殿(たいせいでん)の 建物(たてもの)は
公學校(こうがくかう)に 充(あ)てられて
今猶(いまなほ)吚唔(いご)の 聲(こゑ)を聞(き)く
64.
僭(せん)してここに 臺灣(たいわん)の
王(わう)と名(な)のりし 朱一貴(しゆいつき)が
住(す)みし昔(むかし)の 宮居(みやゐ)あり
今法院(いまはふゐん)を 此處(ここ)に置(お)く
65.
そぞろに淚(なみだ) そのかみを
しのびまつるも かしこしや
北白川(きたしらかは)の 宮殿下(きゆうでんか)
ここにみまかり 給(たま)ひけり
66.
君(きみ)の敕(みこと)を うけたまひ
近衛(このゑ)の兵(へい)を ひきつれて
島(しま)を平(たい)らげ 給(たま)ひたる
親王(みこ)のみいさを 忘(わす)るなよ
67.
名(な)は安平(アンピン)と 聞(き)こゆれど
港(みなと)次第(しだい)に 埋(うづ)もれて
大船(たいせん)岸(きし)に つながれず
風波(ふうは)を凌(しの)ぐ 便(たよ)りなし
68.
赤崁(せきかん)城趾(じやうし)の 大榕(だいようじゆ)
遙(はる)か沖(おき)より ながめらる
海(うみ)を行(ゆ)くひと この樹(き)をば
目當(めあ)てとなして 往來(わうらい)す
69.
これより海路(かいろ) 五十二浬(ごじふにり)
澎湖島(ばうこたう)なる 媽宮港(まきゆうかう)
みなとの內(うち)は 水深(みづふか)く
大艦巨舶(たいかんきよはく) 泊(とど)むべし
70.
更(さら)に汽車(きしや)にて 中洲莊(ちゆうしうしやう)
車路墘(しやろけん)過(す)ぎて 大湖街(たいこがい)
半路竹(はんろちく)經(へ)て 阿公店(あこうてん)
橋仔頭(けうしとう)より 楠仔坑(なんしかう)
71.
東北(とうほく)指(さ)して 行(ゆ)くときは
蕃薯(いも)に名(な)を得(え)し 蕃薯寮(ばんしよれう)
樟腦(しやうなう)出(い)だす 甲仙埔(かうせんほ)
急(いそ)ぐ旅(たび)とて 立(た)ち寄(よ)らず
72.
舊城(きうじやう)過(す)ぎて 打狗港(たかおかう)
縱貫(じゆうくわん)鐵道(てつだう) ここに盡(つ)く
商船(しやうせん)常(つね)に 輻輳(ふくそう)し
百貨(ひやくくわ)は日々(ひび)に 山(やま)を為(な)す
73.
なほも支線(しせん)に 乘(の)りかへて
三塊厝(さんかいせき)を 通(とほ)り過(す)ぎ
鳳梨(ヲンライ)出(い)づる 鳳山(ほうざん)に
曹公圳(さうこうしゆう)を 探(さぐ)るべし
74.
後莊(こうしやう)越(こ)えて 九曲堂(きうきよくだう)
一里(いちり)東(ひがし)に 阿緱街(あこうがい)
下淡水(しもたんすい)の 河口(かはぐち)に
東港(とうかう)といふ 港(みなと)あり
75.
これより五里(ごり)の 海上(かいじやう)に
かすかに見(み)ゆる 小琉球(せうりうきう)
長(なが)さは一里(いちり) 幅(はば)半里(はんり)
何(いづ)れの家(いへ)も 鹿(しか)を畜(か)ふ
76.
枋寮(ばうれう) 枋山(ばうざん) 楓港(ふうかう)と
海邊(うみべ)の路(みち)を 辿(たど)り行(ゆ)く
山(やま)はせまりて 海(うみ)をせめ
波(なみ)は激(げき)して 巖(いは)を嚙(か)む
77.
車城(しやじやう)に注(そそ)ぐ 四重溪(しぢゆうけい)
その川上(かはかみ)の 石門(せきもん)は
兩岸(りやうがん)いはほ そば立(た)ちて
恰(あたか)も門(もん)の 狀(さま)をなす
78.
明治七年(めいじしちねん) 我(わ)が軍(ぐん)が
頑強(ぐわんきやう)なりし 牡丹社(ぼたんしや)を
劇(はげ)しく攻(せ)めし 所(ところ)なり
途(みち)に記念(きねん)の 碑(ひ)を探(さぐ)れ
79.
皇澤(くわうたく)日々(ひび)に 霑(うるほ)ひて
學(まな)びの庭(には)に 蕃童(ばんどう)が
われ劣(おと)らじと 集(つど)ひ來(き)て
御國(みくに)言葉(ことば)の 花(はな)ぞ咲(さ)く
80.
氣候(きこう)はいつも 暖(あたた)かに
春(はる)の如(ごと)しと 聞(き)こへたる
恆春(こうしゆん)街(がい)に いたりなば
求(もと)めて來(き)たれ 蝴蝶蘭(こてふらん)
81.
ここにて西部(せいぶ) はてぬれば
海路東岸(かいろとうがん) さぐらんと
たよりを待(ま)ちて 海濱(かいひん)の
大板轆(だいはんろく)を 船出(ふなで)せり
82.
バシイ海峽(かいけう) 隔(へだ)てたる
ルソンと遙(はる)か 相(あひ)むかふ
最南端(さいなんたん)の 鵞鑾鼻(がらんび)に
大燈臺(だいとうだい)を 設(まう)けたり
83.
鼻(はな)をまはりて 北方(ほくはう)に
船路(ふなぢ)をかへて 進(すす)み行(ゆ)く
海上遠(かいじやうとほ)く 紅頭嶼(こうとうしよ)
雲(くも)か山(やま)かと 薄(うす)がすむ
84.
島(しま)のめぐりは 九里(くり)あまり
太古(たいこ)のさまを 見(み)る如(ごと)き
いとあはれなる 蠻民(ばんみん)が
二千(にせん)ばかりも 住(す)むと聞(き)く
85.
やがて卑南(ピナン)に 寄港(きかう)せり
臺東一帶(たいとういつたい) 未開(みかい)の地(ち)
天與(てんよ)の遺利(ゐり)は そのままに
人(ひと)の來(き)たりて 取(と)るを待(ま)つ
86.
黑潮(くろしほ)に沿(そ)ひ 進(すす)みつつ
次(つぎ)に立(た)ち寄(よ)る 花蓮港(くわれんかう)
移民(いみん)の計畫(けいくわく) 歩(ほ)を進(すす)め
開拓(かいたく)事業(じげふ) 起(お)こりたり
87.
これより沿岸(えんがん) 二十餘里(にじふより)
幾千尺(いくせんしやく)の 斷崖(だんがい)が
海(うみ)にせまりて 聳(そび)え立(た)ち
船(ふね)を寄(よ)すべき 所(ところ)なし
88.
蘇澚(そおう)の港(みなと)に 船(ふね)をすて
宜蘭(ぎらん)の平野(へいや)を 橫(よこ)ぎりて
それより山路(さんろ) 分(わ)け入(い)らば
深坑(しんかう)地方(ちはう)に 到(いた)るべし
89.
濱邊(はまべ)の路(みち)を 越(こ)え行(ゆ)けば
三貂角(さんしようかく)は 右(みぎ)に出(い)づ
領臺役(りやうだいえき) まつさきに
近衛(このゑ)の軍(ぐん)の 上陸地(じやうりくち)
90.
これより元(もと)へ 歸(かへ)る道(みち)
黃金(こがね)掘(ほ)り出(だ)す 牡丹坑(ぼたんかう)
尚(なほ)も瑞芳(ずいはう) 金瓜石(きんくわせき)
寶(たから)の山(やま)は 連(つら)なれり
以上就是全部歌詞。
真的是有夠長,維基百科上的歌詞唯一幫到我的是可以用複製貼上的方式少打很多字,但是在漢字的字體部份,有的用新字體,有的用舊字體,標音的部份也是一樣,有的用現代假名遣,有的用歷史假名遣,實在是很困擾,其實是可以一致性的…
至於歷史假名遣的部份,還真是很難懂,有的字需要,有的字又不用,尤其是發音か開頭的字,很多都發成くわ、ぐわ,常常都會漏改,就連一些訓讀的字都有變成歷史假名遣,有些歌詞其實沒有漢字,但也是需要變成歷史假名遣,實在是很麻煩呢…
畢竟都是學現代日語,腦中已經被現代假名遣的思維給影響了,所以即使貼上來之後還是要再改正,說不定突然看到哪裡漏掉沒有改到還是會再編輯吧?這首歌我很喜歡,但是真的太長了。
以上。