あの人から、 たった一ページの手描き原稿が送られてきた。
從那位手中僅收到一頁的手寫原稿。
一ページの原稿用紙にたった一つだけの長臺詞。
紙上只有一句很長的臺詞。
あいつは何度も何度もおおはしゃぎで諳んじていた。
那傢伙一次又一次的,愉快地默背著臺詞。
たった一つの臺詞で何ができるんだと思いながらも、 そのはしゃぎぶりは僕にも理解できた。 それは詩的な美しさ、 話者の深い人間性、 背景の物語の無限な広がりを感じさせる臺詞だった。
想著僅僅是一句臺詞到底可以做什麼,但那傢伙興奮的氛圍,彷彿感染到我,連我也理解了那種愉悅的情緒。那句臺詞如同詩ㄧ般的優(yōu)美,編劇的深諳人性,讓整句臺詞像是擁有壯闊的故事背景,得以不斷延續(xù)想像。
文化祭の舞臺は、 あいつがこの一ページから膨らませて執(zhí)筆した腳本で公演を行うことになった。
那傢伙決定用這一句臺詞來擴寫劇本,來當作這次文化祭的舞臺演出。
三年生のあいつと僕以外ほとんどが新入生メンバーの中、 あいつが主役に抜擢したのは舞臺未経験の大根役者だった。
社團成員的三年級生除了我和那傢伙以外,其餘的人基本上都是新生,而那傢伙則推薦了毫無經(jīng)驗,演技又差的人作為主角。
僕は準主役だ。 あの長臺詞を任されたのが僕ではなかったことに落膽と不満はあったが、 僕の役は完全なあて書きで書きたかったと言われて納得した。
このポジションで舞臺をまとめてほしいと頼まれれば、 是非もない。
我則是副主角。對於那句臺詞不是由我來演出這件事,我是感到失望及不滿的。
不過,我負責的角色在劇本中是具有統(tǒng)籌大家的重要地位,被那傢伙的說詞,以及誠懇的請託給打動了,我決定接演這個角色。
次が、 あいつと作れる最後の舞臺となる。
這次是我們在高中生涯中一起演出的最後舞臺了。
そう思うと、 自然と日々の稽古や後輩への指導にも熱が入った。
役者はもちろん、 照明や音響にも手が抜けない。
すべてが完璧に美しく調(diào)和した狀態(tài)で仕上げた舞臺――それが、 僕とあいつの三年間の集大成としてふさわしい。
在這麼想的同時,自然而然地,在平日裡對於指導後輩們排練時,便充滿了熱情。
演員的排練就不用說了,燈光照明、音響設備皆毫不鬆懈的準備中。
這次的舞臺上,全部都要調(diào)整到最完美的狀態(tài),這便是作為我和那傢伙三年以來努力的成果,也是最相襯的舞臺。
そんな僕の想いとは裏腹に、 演劇部部長兼演出家のあいつの指導は生ぬるかった。 否定的なダメ出しを一切しないやり方に、 僕のいら立ちは頂點に達していた。
與我的想法相反,那傢伙身為戲劇社的社長兼演員,對於指導的方式都過於溫和。
從來不否定大家不好的地方這點,這種指導方式讓我感覺焦躁不安到了極點。
從這裡我想到剛開始監(jiān)督醬在指導春組的狀況,明明大家表現(xiàn)鬆散,但卻不說出指正的話。
而選擇大根演員這件事也是,看看監(jiān)督醬出馬看到中意的就出手,然後被其他人默默吐槽的狀況(嗯?
雷尼感覺上跟真澄有點像呢~都是很冷漠的人,也都不跟大家親近,但因為監(jiān)督醬的關係,慢慢感受到戲劇的有趣之處,漸漸地也有了熱忱(笑)