前言:
最近閒來無事就去翻翻我爸的書櫃,無意間看到一本關於高砂義勇隊的書,整本書以日語寫作,因為我爸看不懂日文所以從來沒有翻閱過,放在書架上好多年,書皮幾乎快要發霉了。近來我學了點日語,於是我就想試著翻翻看。
本書書名叫「臺灣第五回高砂義勇隊」,文榮出版社1994年出版,內容有「名簿」、「軍事儲金」、「日本人證言」...等等,我決定試著翻譯「證言」中的幾篇內容。
這是我第一次翻譯,經驗不足,有些地方若直翻會覺得怪怪的,因此我就自己口語修飾一下(也有一兩句我不確定自己有沒有看懂),所以應該會有我翻錯或超譯的地方,底下會附上原文,歡迎大家糾正。
率領第五回高砂義勇隊(一)
口述:小隊長 上野保 (現居山口縣美彌市;76歲)
編者:林えいだい
翻譯:夏亞
原文:《臺灣第五回高砂義勇名簿、軍事貯金、日本人證言》(日文),文榮出版,林えいだい編, 1994年,P255-P258。
1938年(昭13)十二月,我在山口縣接受徵兵檢查後,就以現役士兵身份進入了臺南的步兵第二聯隊,不久之後便被派屬在花蓮的第三大隊。
1942年(昭17)四月,我以上等兵的身分退役之後,因為不知道要不要回去內地(日本本土)而感到迷惘。我在家鄉有四個兄弟,我排行老么。因為喜歡臺灣的風土和人情,於是決定待下來。因為聽說有軍隊經歷的人會受到優待,所以我志願成為總督府的警官。
我在高雄州屏東郡武泰(ムタイ)的武泰駐在所值勤(註1),初次任職的薪水是40元(內地30元)。
當時,那裏被稱為「番地」,為高砂族中的排灣族(註2)所居住的地方。
附近有個著名的高山叫大武山(3090公尺)。山中的駐在所,有警官和警丁大約五、六人。
雖然政府沒有禁止我與家人同住,但因為工作調動的原因我選擇住在山腳下的屏東町的官舍。我每周輪班一次,到山上的武泰駐在所執勤。在那裏我們雇傭了一個原住民的少女負責幫忙炊事及洗衣等工作。
很久以前的番地,有獵頭出草的習俗,我來到當地的時候,這項風俗已經被禁止了,當時部落之間若有衝突的話,是非常危險的。
一旦黃湯下肚,有人出言不遜之後,這種惡習又會開始蠢蠢欲動。
但太平洋戰爭開打之後,根本沒時間耗在這種事情上了。
說到學校,當時原住民所上的是「公學校」或「番童教育所」,我們警官全員負責輪流去這些地方擔任老師的工作。我們去這些學校執行的並非正規的教育,而是唱唱以前記得的歌曲、或是在黑板上教教算術而已。
雖然青年團中的年輕人日文說的很好,但老人們一如既往地使用當地的語言。
排灣族的服裝是將番布掛在肩膀上,然後在腰部附近打個小節。不論是大人小孩都打著赤腳,腰間則時時刻刻都掛著番刀。
在原住民的少女當中,有令人驚豔的美人,雖說警官和少女之間的關係還算嚴謹,但男女間的交往肯定會出問題。要是讓對方懷孕的話,馬上就會被政府解僱。即便如此,單身者依舊偷偷做著這種美味的事情。
我所值勤的武泰部落有戶數一百四十戶(註3),即使是比較小的地方也有2、30戶 。
不管是哪個部落都有各自的頭目,這些人被警察任命為「警補」。他們的職責僅限於幫忙警察,而不能執行警察的勤務。這項工作並沒有薪水,只是名譽職位而已。
排灣族的體格非常的好,身上到處都是隆起的肌肉。他們用額頭掛著像是帶子般的繩子來撐住背上的貨物。
該說是臺灣統治以來的警官教育的很好嗎,現在的原住民十分的純樸老實。很聽警官的話,完全沒有發生反抗的事件。
與臺灣的本島人比起來天差地遠,高砂族的人們是值得信賴的。
警官們不只是在番童教育所講課而已,也輔導當地人各式各樣生活上出現的問題。
其中一個便是農業指導,從旱稻到野菜的種植和製作方法都在指導範圍內。以燒耕為主,將森林砍伐後燒掉,再種植栗子樹之類的,每一兩年就要換一片土地耕種。警官將肥料的使用和養地的方式教給原住民後,作物從栗子轉變成了旱稻。
將栗子去殼再用木頭敲碎去皮,與番薯一起雜煮,這就是之前原住民的主食。
他們偶爾會入山打獵,帶回水鹿或山豬之類的。
獵人獵用的槍枝是放在駐在所的槍機庫中保管的,在出借前必須將出借幾日、子彈幾發、要去哪裡等等資料全填在申請書上才行。獵人從山中回來後,總會帶給我們一隻山豬腿當作禮物。
在組織青年團,讓他們勤奮奉獻的同時,也行軍事訓練的關係,他們很自然而然的就產生了對日本軍隊的憧憬。
第一回的高砂義勇隊募集是在1942年(昭和17)三月,在我抵達駐在所之前他們就已經出發了。接下來的第二回海軍特別陸戰隊之後,則是由我親手通過志願手續招募的。總督府發來命令要高雄州招募人員去參加戰爭,武泰自然也會有配額。很快的,各個駐在所也都收到了招兵的命令。
由於有青年團這樣的組織,警察都很清楚成員的動向。
「想要自願的人,叫過來我這裡!」
只不過是這樣說一聲而已,他們就自己志願參加了。
當時的青年們,都熱血沸騰的想為祖國出一份力。要將他們集中起來不是很費力,倒是打發自願者才是最辛苦的。
「老師,為什麼不讓我參加啊?」,這樣抗議的青年也有。
才14、15歲的少年也跑來要自願。
「你們還太年輕了所以下次吧!」,我是這樣子想讓他們放棄。
「為了祖國,為了天皇陛下,因此想要名譽的戰死!」
少年說出了令我吃驚的話,想要為了國家戰死這樣的熱誠令我感動。我想這大概是至今為止前輩們所做的皇民化教育的緣故吧。
看到自願的青年們像燃起了火焰般的身姿,我自己有著必須率領他們走向戰場的責任。
總督府發出高雄州組成的小隊,由現場的警官負責的命令。從第一回到第四回都是由大隊長為警部、副官為警部補、小隊長由部長或一般的警官擔任。鹿毛大隊長便是臺中州的警部,以前也在番地的駐在所執勤。中村副官則是臺中州玉山腳下三千公尺高的人倫社(現在的南投人和村)的警部補。
由於我有軍事經驗而被視為最適合擔任此要職,既然是為了祖國我也就欣然同意了。
圖1、率領第五回高砂義勇隊的中村數內副官(左)(圖片來源:林えいだい編 1994:257)
圖2、1943年高雄州屏東郡番社戶口資料(資料來源:國立臺灣圖書館日治時期圖書影像系統臺灣總督府理蕃課「蕃社戶口」)
註:
1. 這個小隊長當時值勤的屏東郡武泰(ムタイ)部落,根據1942年的番社戶口調查應該是屏東郡的霧臺(ブタイ)部落。我的祖父母則是霧臺附近的好茶社(コチャボガン)魯凱人,祖父終戰時應該是18、9歲。
2. 文內所說的排灣族在當時的分類上被記錄成「傀儡番」,也就是魯凱族人。魯凱族語在稱呼「霧臺」時的羅馬字母拼音是V開頭,而當時的日本番地普查並不是每個部落都有賦予漢字名稱,如果習慣聽當地人族語的唸法,將ブ、ム搞混也不無可能。
3. 戶數139就是霧臺,和上野保說的百四十戶差不多,1942年的紀錄於1943年出版,同時也是日本最後一次的番地戶口普查。(圖2)
以下是原文:
一九三八年(昭13)十二月、私は山口県で徴兵検査を受けると、現役兵として臺南の歩兵第二連隊に入隊した。まもなく花蓮の第三大隊に配屬になった。
一九四二年(昭17)四月に上等兵で除隊すると、內地に帰るかどうか迷った。故郷には男兄弟ばかりが四人、私はその末っ子に生まれた。臺灣の風土と人情が気に入り、そのまま殘ることに決めた。軍隊経験者は優遇するという話しがあって、総督府の警官を志望した。
給料は初任給が四十円(內地三十円)、高雄州屏東郡武泰家にある武泰(ムタイ)駐在所に勤務した。
當時、番地といわれ、高砂族のパイワン族が住んでいた。
近くには大武山(三、〇九〇メートル)という高い山があった。山の中の駐在所には、警官と警丁が五、六いた。
家族で住めないこともないが、転勤があったりするから麓にある屏東の町の官舎にいた。週に一度交代で、武泰駐在所へ上がった。そこでは炊事と洗濯をさせるため、原住民の娘を一人雇っていた。
昔から番地には、首狩り(出草という)の習慣があったが、私が行った頃は禁止されていた。部族同士の爭いごとがあると、危険な雰囲気になることがあった。
酒を飲み始めると喧嘩になり、そうした悪い習慣が吹き出てきた。
太平洋戦爭が始まると、喧嘩どころではなくなった。
小學校といえば現住民は公學校か番童教育所、私達警官がみんな交代で先生をした。教育の専門の學校に行ったわけではなく、昔覚えた歌を歌ったり、黒板に數字を書いて教えた。
青年団位の若い者は結構日本語を話すが、老人達は昔ながらの現地語だった。
パイワン族の服裝は、番布を肩からかけて腰の辺りを紐で結んだ。大人も子供も素足で、彼らはいつも蠻刀を腰に下げていた。
娘達の中には、驚くような美人がいた。警官と娘のことはやかましかったが、やっぱり男女の仲なので問題が起こる。妊娠させたりすると、すぐクビになった。それでも獨身者はこっそりうまいことやった。
私が勤めた武泰部落は戸數百四十戸、小さいところになると二十戸から三十戸だ。
どの部族にも頭目(酋長)がいて、警補に任命されていた。彼らは警察の手伝いをするが、その役割りはしない。給料は払わず名譽職だった。
パイワン族は非常に體格がよくて、筋肉は隆々としていた。額に帯のような紐をつけて、後に重い荷物を擔いだ。
臺灣統治以來の警官の教育がよかったのか、原住民はとても素直だった。警官のいうことはよく聞いて、反抗することは全くなかった。
臺灣の本島人に比べると天と地の差があり、高砂族の人達は信頼できた。
警官達は番童教育所の教師だけでなく、いろんな生活相談にものった。
その一つには農業指導があり、陸稲の植え方や野菜のつくり方まで指導した。焼畑農業が主で、森林を伐採すると焼いて栗などを植えるが、一、二年で新しい場所に土地替えした。警官は肥料の與え方、土地を肥やす方法を指導して、そのうち栗から陸稲を植えるようになった。
栗を刈取ると木で叩き、皮を取るとサツマ芋と煮て雑炊をつくり、それが原住民の主食だった。
たまに山に猟に出掛けて、鹿とか山豚を取ってきた。
猟をする銃は、駐在所の銃機庫で保管して、何日間行くから弾は何発、場所は何処だと申請書を書かせて貸し出した。山から帰ってくると、山豚の足一本を擔いでお禮に持ってきた。
青年団を組織して、彼らを勤労奉仕させながら、軍事訓練をしたので、自然に日本の軍隊に憧れを持つようになった。
第一回の高砂義勇隊の募集は、一九四二年(昭和17)三月、私が駐在所にきた頃には出発した後だった。
次の第二回の海軍特別陸戦隊からは、私自身で志願の手続きをした。総督府から高雄州に何名出せと割當てがくると、武泰が何人だと決まる。それから各駐在所に命令がきた。
青年団の組織があるので、警察では誰が何処におるかは全てわかっている。
「志願したい者は、俺のところにいうてこい!」
それだけいえば彼らは自分で志願してきた。
當時の青年達は、お國のために役に立ちたいと燃えていた。
彼らを集めるのに苦労したことはない。逆に志願した中から外すことに苦労した。
「先生、僕をどうしてやらせてくれないのですか!」と、抗議する青年もいた。
年齢の若い十四、五歳の少年も志願してきた。
「お前はまだ若いからこの次だ!」
と、あきらめさせようとした。
「お國のために、天皇陛下のために名譽の戦死をしたいんです」
少年は私が驚くようなことをいった。國のために死にたいという、その熱意には感激した。それまでの先輩達の皇民化教育のせいだろうかと思った。
青年達の燃えるような志願の姿を見て、私自身、彼らを戦場へ連れて行く責任があると思った。
高雄州だけで小隊をつくり、その指揮を現地の警官が取れと、総督府から高雄州の理蕃課に連絡があった。第一回から四回まで、大隊長は警部、副官は警部補、小隊長は部長か一般の警官を持ってきた。大隊長の鹿毛さんは臺中州の警部、以前は蕃地の駐在所に勤務していた。中村副官は、臺中州の新高山の麓三千メートルのランルン社の警部補だった。
私は軍隊経験があるから最適任だといわれ、お國のためならと同意した。
原文出自《臺灣第五回高砂義勇名簿、軍事貯金、日本人證言》(日文),文榮出版,林えいだい編, 1994年,P255-P258。